Archive for 5月, 1998

  • 秘史:佐太郎翁以後

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 1

     さて、ここからは佐太郎翁死後の森島家の歩みを振り返りながら、その内側をもかいま見ていくページになるはず、・・・である。

     佐太郎翁の死後、森島家は揺れる。偉大なる家長の死後、混乱が起きるのは古今東西を問わない。森島家も例外に漏れず、お家騒動が勃発する。ちなみに私はひそかにこれを、「第一次森島家の乱」と、名付けることにする。

     さて第八代当主になった弥太郎であるが、彼には何人かの姉がいた。彼自身は温厚な教養人であるが、その姉たちは「偉大なる父のもとで甘やかされて育ったわがまま」な女性であった。漫画に出てくるような、典型的なだめ娘である。全ての姉がそういうわけであったのではないのだが、私が伝え聞くところによると、その一人は「遺産分け」の大義名分を振りかざし、弥太郎が相続すべき株の一部を強引に持ち去っていったそうである。またある一人は伝来の家宝の一部を売却してしまったそうである。既に数十年以上昔の話であるため、その詳細に関して、今となっては調べるすべもない。

     戦後の農地改革で森島家が土地を失ったのは「正史」記述の通りであるが、そのために生じた経済的困窮を乗り越えるため、家宝の多くをオークションにかけて売却してしまったそうである。おそらく、岐阜の業者などを呼び集め、二束三文で引き渡したのであろう。やむにやまれぬ行為であったとはいえ、このため森島家の歴史を、勘右衛門以前にさかのぼることは、ほぼ不可能になってしまった。

     そして時代は高度成長期にいたる。弥太郎の長男であり、現当主信夫は妻・悦子と大阪万博開催の前後に結婚。「初めて会ったときに、マッチ箱をお墓に見立ててお墓の話をしていた。なんて変な人だろうと思った」という述懐を悦子がしている。なぜそんなはじまりから、結婚に至ったのかは永遠の謎である。

     さて、話はさらに続く。が、なにぶんにも関係者のほとんどが生存している現状で、「裏話暴露」などをするわけにはいかない。
     というわけで、「秘史」はこの時点で終了する。波瀾万丈の森島家の歴史は、さらに続くことになりそうである。

  • 秘史:佐太郎翁の時代

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     やはり、「佐太郎翁」抜きにして、我が家の歴史は語れない。我が家歴代当主の中で、その業績は最も大きく、また最もやり手でもあった。・・・ということは、「秘史」に書くべきような裏の部分も最も大きいということである。以下、古老の回想をもとに、推察をまじえて翁の生涯を検証してみたい。

     彼は先々代勘右衛門の子にあたり、先代為三郎の弟でもある。為三郎の早逝により、家を継ぐことになる。というのは「正史」の通 りである。第七代当主。縁起の良い数字である、が、彼の人生は八方広がり、というに相応しい波瀾万丈のものであった。

     先祖代々の家産全てを担保にして資金を調達し、株の仲買屋を開く。保守的な農家であるにもかかわらず、よく親戚 の反対を押し切ったものである。「思い立ったら即行動、人の意見など構うものか」というのは、いまや森島家の伝統ともいえるくらい、歴代当主及びその跡継ぎ候補の座右の銘であるが、そのはじまりはこの佐太郎翁であったのではなかろうか。フロイト流に解釈すれば、この後の森島家当主の上位 自我は、この佐太郎翁なのである。

     明治末期に開業したと思われる彼の店、「山佐」は、大正初期にあえなく倒産。長く見ても20年ほどの期間である。日本の産業革命期の高度成長に、ちょうど歩を一にしている。つまり、バブル景気の徒花を打ち上げただけに終わってしまった。その華麗な花火のおかげで、我が家は伝来の家産全てを失ってしまう。時に佐太郎翁は45歳前後であったと推察される。当時の感覚でいえば、人生も終盤にさしかかったところで「人生ゲームの上がり失敗」マスに駒をとめてしまったことになる。

     しかし、これからが佐太郎翁の真骨頂であった。もともと縁が深い早川家のもとで、耕地整理・灌漑事業を始め、水害に有史以来悩まされてきた、あの「輪中」で知られる安八郡を見事に美田に変える。灌漑には私財数十万円を費やし、耕地整理事業は実に221.1町歩の田地に関わり、10年の歳月をかけるものであった。その功により、翁は仁木村の村長に就任する。彼の前半生に失った森島家の家産も、徐々に復していった。
     以上が正史よりの要約である。

     さて、上の段落を読んで疑問に思われたことはなかったであろうか。そう、「株でスッテンテンになったにも関わらず、なぜ私財数十万円を事業に投入することができたのであろうか?」という謎である。
     ここからは推察であるが、当時の農村における経済的活動は、地主階級の利益を最大化することがその主たる目的であった。つまり、「農地の生産性が上がる」=「地主の利益が増大」という図式が成り立つのである。家産を失ったとはいえ、下大榑新田随一の名家であり、安八郡内でも有数の実力者であった森島家のブランドを活かし、彼は地主階級をスポンサーにして、灌漑事業を行ったのではないのだろうか。この手の公共事業は個人でやるにはリスキーで、誰もがおじけづいていた。そこで佐太郎翁が、「私が皆さんの代わりに事業を行いましょう。その代わり、出資をよろしくお願いします」とでもいうような提案をしたのであろう。地主階級をまとめ、事業をスタートさせたのであろう、翁の行動力、企画力、説得力は大したものである。
     地主階級の私財を資本に、佐太郎翁はその名声を復すべく勝負に出た、ともいえる。成功すれば有力者に貸しをつくり、再スタートの糸口となるべき名声も手にはいる。失敗すれば、パナマ運河掘削で破産したレセップス状態である。株といい、この事業といい、佐太郎翁は根っからのギャンブラー気質である。今回はその勝負に見事勝った。結果 、歴史として残る史書には、「私財を散じて」とまで記述されることになる。無名のスポンサーたちは、歴史の陰に隠れているのであろう。一将功成りて万骨枯る、を地でいくような話である。

     さて、謎はまだある。「株屋の負債返済のため、全てが失われたはずの財産が、どうして旧に復していったのか」である。ここに、耕地整理事業がからんでくる。これは私の推察ではなく、第八代当主弥太郎の推察である。そのため、信憑性も高い。・・・残念ながら。

     耕地整理事業、について簡単に説明しよう。正史に記述したとおり、「不定形で機械が入りにくく、生産性の低い土地を区画整理し、近代的な農地に生まれ変わらせる作業」のことである。つまり、「ぐちゃぐちゃの土地をきれいな碁盤目上の農地に変える」のである。
     土地に対する帰属性が高い日本では、現在でもこのたぐいの作業は手間暇がかかる。自分の土地を変更されることを嫌がる人間が多いからである。特に当時は地主・小作両方の権利関係が錯綜していたと推察され、その複雑さは大変なものであっただろう。
     しかしながら、定型地に変更したほうが、全体の利益は大きくなるのである。ただ、そのために個人の利益が失われる場合があるため、調整に膨大な労力が必要となる。佐太郎翁は、この調整作業を主に行ったのであろう。
     そして、ついにこの事業に成功する。現在のこの地の基盤は、翁が築いたと言っても過言ではない。
     佐太郎翁は不朽の名声を勝ち得た。

     ・・・さて、「不定形地を定型に整理すれ」ば、「剰余地」が出現する。当たり前のことである。
     ああ、書きたくないなぁ。でも、おそらく史実なので、書かねばなるまい。佐太郎翁は、その切れっ端のように余った川沿いの土地を、自分名義のものにしてしまったのである。そして、それが昭和前期の我が家の家産となる。辣腕デベロッパーのはしりのような人だ。これが、我が家の家産が復活した、大きな主要因と思われる。
     ちなみに翁の名誉のために書き添えておけば、この件にはおそらく地主サイドとの間で密約があったのではと思われる。「大変な手間ひまがかかる事業だから、あなたが全てを取り仕切ってくれ。その代わり、その見返りとして剰余地はあなたのものにしてもよい」というような内容の。
     佐太郎翁は、この耕地整理事業中に、明治以来遠のいていた仁木村議の座に返り咲く。これも地主階級の全面的なバックアップによっていたのであろうし、かつ翁の事業の肯定をも意味していたのだろう。それを証拠づけるものとして、このときに取得した土地は他の地主との共同名義である。つまり、もともとの持ち主に利益を供与するかわりに、その分け前にあずかったということである。また、この頃に翁は株式も購入。・・・どうも株の未練は絶ち難かったようだ。
     ちなみに、耕地整理事業を実際に担当したのは、現・日八工業株式会社の初代である。彼はその事業により、村一番の土建業者としての座を不動のものにする。村議(のち村長)・森島佐太郎-地主階級-土建屋の三角形は、まさしく現在の政-財-官トライアングルそのものである。そして時は流れ平成10年、日八工業は町の事業発注にからみ、汚職で業務停止処分になる(これは森島家とは関係ない)。その萌芽は、すでにこの時に作られていたのである。

     そして村長に就任。これも在地の小地主に推されてのものであろう。佐太郎翁の村長在任期間は1年8ヶ月(S.15/2/20 – S.16/10/26)。仁木村史上最短である。(輪之内町史 P.218より)
     在任中は、「何もしない村長」として、大変有名だったそうである。波瀾万丈のすえ、何とか功成り名遂げた翁は、気力を失ってしまったのか、あるいは守りに入ったのか。村長辞任の3ヶ月後、森島佐太郎死去。正史記述の通 り、葬儀は村葬として営まれた。

     今でもその功績・・・であろう、やはり・・・を讃える、銅像が我が家に残っている。くどいようだが、これもおそらく佐太郎翁のおかげで利益を得た地主階級の資金で建立されたのであろう。しかも、この銅像は翁の生前に建てられている。序幕記念式の写真には、翁の姿もはっきりと写っている。・・・恥ずかしいことである。そしてこの目立ちたがり根性も、我が家の血統の中に刻み込まれてしまうのであった。

     「英雄色を好む」というか、翁は名古屋で株屋を営んでいた時代に二号さんをこしらえ、囲っていたそうである。さらに驚くことには、破産で帰郷したにもかかわらず、翁はお妾さんを実家に連れて帰ってきた。もちろん家におくわけにはいかないので、隣町に住まわせたらしい。晩年はこの妾宅に入りびたりだったようである。正史中に、「妻りきは上京して羊羹屋を開いた」というかなり突拍子もない記述があるが、その一因にこのことがあるのではなかろうか。・・・が、誰もそんなことは語ってくれなかったので、真相は闇の中である。そしてこのお妾さんを主役に、翁の死後一波乱が起こったようであるが、・・・このことも、はっきりとは誰も語ってくれなかった。

     森島佐太郎、69年の波乱に富んだ生涯であった。何だか汚い裏話ばかりになったが、翁が現在の岐阜県安八郡輪之内町の礎を築いた人間の一人であることは間違いない。その業績は、いかなることがあろうとも忘却されるべきではない。

  • 秘史:佐太郎翁以前

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     さて、「正史」にならいこの項は「森島勘右衛門」について記述することにする。やはりこの人物を抜くわけにはいかない。「かんねもんさ」は、森島家中興の祖、なのである。

     勘右衛門の業績として残っているのは、灌漑事業と俳句をたしなんだことである。灌漑事業は後にその息子佐太郎が大々的に行ったため、勘右衛門のそれはかすんで見えるのだが、我が家に残る掛け軸にもその詳細は記述されている。おそらくこれは奉仕活動でも何でもなく、「自前の土地の生産性を上げよう」というエゴイズムに過ぎなかったろう。まあ、おかげで村全体の収穫も増えたはずなので、よしとしておこう。

     勘右衛門が俳句を好み、俳号を作って句会まで開いていたのは「輪之内町史」に明らかである。「正史」にも引用したが、

     眼をあかす いろは始めの 習ひごと 楚風
    (輪之内町史 P.201)

     という俳句を詠んでいる。楚風というのが勘右衛門の俳号である。
     ・・・我がご先祖ながら、下手な句である。田舎文化人を気取っていたのであろう。
     田舎文化人にふさわしく、勘右衛門は多くの美術品を蒐集したりしていた。その一部が、今も我が家に残されているが残念ながらそのほとんどは贋作、二級品である。見る目がないというか、悲しき田舎っぺというか、お大尽の道楽なんてこんなものだというか。この審美眼の無さはどうも血のようで、他の当主にも見受けられる。

  • 秘史:森島家・想像の彼方

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     「正史」に書かれているとおり、「森島」姓の由来に関しては、伝承のような話があるだけで、しっかりしたところは何もわかっていない。
     だいいち、「江戸時代の農民には姓氏なんてなかったのではないか?」という疑問を呈される方もおられるだろう。実は、森島家のある岐阜県輪之内町が刊行した「輪之内町史」には、我が家のご先祖様がたびたび現れるのだが、姓がない。
     しかしながら「森島姓の伝来」については、同書がページを割いて記述しており、また「森島○○」というかたちでの記述も時にあらわれる。やはり、森島姓は江戸時代から、あるいはそれ以前からのものと考えるのが妥当だろう。江戸時代には、原則として農民は名字を名乗ることが許されなかったわけであるが、例外がないわけではない。武士が土着した場合、あるいは武士階級と特殊なつながりがある場合などである。「森島姓は飛鳥時代よりの由緒ある姓」という伝承が真実だとすれば、名字の使用もある程度許容されたのであろう。

     我が家には、伝来の短刀が一振りある。本当は長刀もあったらしいのだが、残念ながら散逸してしまったようである。ただの短刀ではない。徳川の葵紋が入った刀である。
     なぜ、森島家にそのようなものが残されているのだろうか。この疑問を解明することは、我が家の過去をひもとく一端となりそうである。

     葵紋というと徳川家が真っ先に思い浮かぶが、この紋所を使用したのは徳川将軍家や御三家だけではない。松平姓を名乗る親藩の多くも、この紋所を用いていた。
     森島家のある岐阜県安八郡下大榑新田から最も近いところに位置していた徳川の親藩といえば尾張徳川家、ないしは岐阜県南部にある高須(たかす)松平藩である。尾張徳川家は、森島家ふぜいが刀を貰えるような大名家ではないので、この短刀はおそらく高須藩から下賜されたものだろう。
     一介の庄屋が殿様から刀を貰えた理由は何か。当時の時代背景から考察してみよう。
     江戸時代も中期を過ぎると、貨幣経済が全国に浸透し、多くの武士階級はその結末として貧窮になっていった。武士は農地から収穫される米穀にその主収入を依存しているため、時代の潮流に乗り遅れたからである。また、参勤交代や御用普請をはじめ、幕府に命ぜられる責務に多額の費用を必要としたからでもある。高須藩とて例外ではなかったのだろう。ましてや数万石の小大名である。参勤交代の費用を捻出するだけでも相当な負担だったに違いない。
     かたや、森島家が庄屋として管理していた下大榑新田は天領(註:幕府の直轄地)であり、多くの史書にみられるように、天領の農民は一般 の農民より裕福であったと推察される。
     ここまで書けばおわかりだろう。おそらく、森島家の先祖はおそれおおくも殿様に何らかの経済的便宜を図り、その見返りとして刀を頂戴したのではないか。何だか生臭い話ではあるが、そう考えると合点もいく。

     さて、伝承によると森島家は笠松から下大榑新田に移住し、そこで庄屋になったということである。「正史」にも書いたとおり、おそらく江戸時代の中頃であろう。地名に「新田」とつくことから、新田開墾時に分家・移住したと思われる。分家する前の本流は笠松(岐阜市近郊)に存在したと言われているのが、この笠松も天領であり、幕府代官のもとで行われたのであろうと推察される。分家してどうしていきなり庄屋なのか。おそらく、森島本家はこの地の開墾にあたり、何らかの寄与をしたのに違いない。その功あって、分家は当地の差配を任されたに違いない。

     推察し、そして書き出してみると、何だか生臭い話の連続である。森島家の先祖は、相当なやり手が何人もいたのだろう。
     ちなみに、下賜された短刀には「志津」の銘が入っている。本物なら鎌倉時代の名工志津三郎(=兼氏)の逸品であるが、どうも偽物のようだ。残念ながらこのあたりは所詮百姓の愚かさ、殿様にうまくだまされたのだろう。

  • 秘史:森島姓の由来

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     さて、本文においても森島姓の由来を取り上げたのだが、新たに森島姓について判明したこともあった。

     森島(もりしま):
     平氏姓、大和の名族。あるいは中原有家の後裔。美濃・尾張に多数。

     出典は失念したが、以上の文章を発見できた。
     まず最初の「平氏姓」についてであるが、これはいわゆる「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と通 称される有名氏族の一つの連枝である、ということだけなので、さしあたってルーツを特定する手がかりにはならない。平氏の中でも有名なのは桓武平氏(平清盛などがその系統)であるが、この他にも仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の4系統が存在していることも特定を困難にしている。
     全ての平氏はもともと皇族の出自であるが、そののちに地方で自立していくものも多かった。先ほど例に挙げた平清盛は、もともと伊勢で勢力があった伊勢平氏の流れである。我が家の先祖が平氏一門であったとするならば、大和に土着したものがそのルーツであったのだろう。ちなみに平氏姓が創設されたのは8~9世紀であるので、森島姓の創始はそれ以後であろうと推測できる。
     もう一つの中原有家をその祖とする伝承についてであるが、もともと中原氏は大和は十市郡の出身であり、学問を管轄する博士家である。中原姓を天皇より賜ったのは10世紀後半である。中原有家、というのがどのような人物であるかについては、残念ながら資料がないが、分家したのは早くとも10世紀~11世紀であることがここから推察できる。

     ここで、本文に記述した伝承をもう一度まとめてみよう。

     壬申の乱(672年)の敗者となり、落ち武者のようなかたちで美濃の国に土着した。

     ということであったのだが、新しく分かった2つのルーツのいずれにしても、その始まりは壬申の乱のはるか後である。ここにきて「森島姓の由来」はさっぱり分からなくなってしまった。このあたりで、森島姓の探求についてはいったん筆を置くこととしよう。

  • 正史:佐太郎翁以後

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     佐太郎翁のため、我が家の形態はその前後で大きな断絶がある。いわゆる江戸期の庄屋を引きずったかたちで、一般 の農村地主のあり方は戦後の農地改革まで保持されていくのであるが、森島家は家産ともいうべき先祖伝来の土地は翁の時代に消滅し、その後に残った財産は翁の帰郷後の活動により新たに培われたものがほとんどであった。旧来より少なくなった所有農地、つまりより小規模な地主と化した本業収入に加え、株の仲買いで培ったノウハウをもとに購入した株式の配当、それに従来より行っていた早川氏所有地の管理・小作料徴収代行からの収入である。
     この3つの主な収入源のうち、やはり直接の小作収入は減少したと推察される。そのため新たに加わった株式配当、そして以前よりウェイトが増した(また、仲買店倒産の負債の担保として、父祖伝来の土地も早川氏に移管されたため、絶対量も増加したと思われる)農地管理の代行業務が、佐太郎翁死去前から農地改革時までの森島家の家計を支えていた。佐太郎翁の長男、8代目当主弥太郎のこの時期の月給は70円であったが、上記2つからの収入は年間1500円であったと弥太郎の妻、ふみをは述懐している。
     現在風にいえば、ポートフォリオの近代化および分散化であろう。この当時所有していた株券で、現在も残存しているものの銘柄は満州重工業(二キ三スケと称された鮎川義介が社長を務めた国策会社)、帝国燃料興業、八王子瓦斯(東京ガスの前身か?)である。重工業・公益企業系にシフトしていたことが推察され、安定性を重視していたことも読みとることができる。

     さて、時代は前後するが佐太郎翁の長男であった弥太郎は、小学校入学に際し、東京から帰郷する。その後、東京高等農林学校に進学。現在の東農大の前身である。地方地主の進学先としては、非常に順当であったといえるだろう。
     弥太郎25歳の時に、佐太郎翁が死去。長男であった彼は、8代目当主として森島家を継ぎ、翌昭和18年に妻・ふみをと結婚。その1年後には長男・信夫、さらに1年後には次男・実夫が誕生。昭和20年4月3日、召集令状により出征を余儀なくされるが幸いその生物学の知識を活用するため、内地勤務となる。終戦後同年10月に除隊。無事郷里に帰還し、ここから現在の森島家の礎が築かれることになる。

     敗戦後の昭和20年は、肥料・労働力の不足を原因に全国的な不足となり、都市部には餓死者も出るありさまとなった。さすがに農村部である下大榑新田では、そのような惨状は避けられたが、地主及びその代行業務を行っていた森島家では、検見(収穫高を測定し、それをもとにその年の小作料を決定する作業)に忙殺されることになる。
     また、これより数年後、有名なGHQ主導の農地改革(解放)が実施される。一応地主階級に属していた森島家でも、佐太郎翁が保有した小作地をほぼ手放すことになった。それに加え、国策会社中心の保有株券は敗戦により全て紙屑と化し、従来の収入源を失うことになった。
     弥太郎の職業は学校の教師であり、以後それが中心の収入になるのではあるが、手をこまねいていれば森島家は完全に没落してしまう。そこで、森島家がその農地管理を代行していた早川家からいくらかの農地と住宅用の土地を購入(農地改革後、自治体から購入したという説もある)。この代金が9350円、当時としてはかなりの大金であった。このうちの350円を頭金のようなかたちで支払い、残りの9000円は割賦で支払われたことが、今に残る売買契約書に記録されている。その記録が正確に実施されたとすれば、支払期間は昭和46年まで続いたことになっている。この「9000円の土地」が、現在の森島家に残る不動産の中心である。つまり、現在の家産の大部分は弥太郎・ふみを夫婦によって形成されたのである。このことは特筆しておかねばならない。
     その宅地は現在も森島本家として、弥太郎・ふみを夫婦が起居している。この土地はもともと早川氏の所有であったが、そこはあの佐太郎翁の銅像が建てられた、森島家との縁が深い土地である。ここが現在我が家の所有になっているのも、因縁というべきだろう。銅像は今も残存し、その姿を子孫に仰ぎみせている。

     それと前後して、森島家は2つに分かれることになる。一つは弥太郎およびその妻ふみをであり、新規に成立したのはふみをの弟・益男と弥太郎の妹・久美子の夫婦を軸とする家である。旧来よりの森島家の家屋は益男が継ぎ、長男であった弥太郎は前述したように、新たに購入した住居に移る。この経緯は今となっては定かではないが、その複雑さのゆえにどちらが本家であるのかは、今もって判然としない。ここでは直接の血統であり、また筆者の祖父でもある弥太郎の家を本家であるとしておく。

     勘右衛門以来、我が家のは書画骨董、あるいは史書としての価値があったであろう作米帳(小作農耕者の管理及び収穫高・年貢高の記録帳簿)など、様々な伝来の品々があった。しかし、戦後の混乱・貧窮に際し、その多くは散逸してしまった。そのため、今となっては森島家の実像を完全に再現することはできない。補筆であるが、この「森島家之由来」も、その多くを推察に頼らざるを得ない。

     さて、長男信夫、次男実夫はそれぞれ大学に進学。当時の大学進学率および進学に要する費用を考えてみれば、これも特筆すべきであろう。当然、弥太郎の収入だけではその家計をまかなうことは困難であり、妻ふみをは養鶏に着手。弥太郎の収入全てを子息の学費に費やし、夫婦の生活はこの養鶏によって営まれた。最盛期には500羽の鶏を飼育していたという。女で独力で行ったことを考えれば、かなりの規模であったといえよう。

     その後、長男信夫は妻悦子と結婚。長男昌洋、つまり私と次男丈洋をもうける。次男実夫は愛知県に分家。現在の森島家家族構成は弥太郎・ふみを夫婦、信夫・悦子夫婦、そして昌洋、丈洋の計6人である。

     歴史として記述できるのは、ここまでである。以後の家系も永続することを願い、筆を置くことにする。

  • 正史:佐太郎翁の時代

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     現在当主信夫で9代目を数える我が家であるが、その歴代当主の中でもひときわ異彩 を放つのが、このホームページでも特にページを割いて以下に記述する7代目・佐太郎である。以下、敬意を払い、彼を「佐太郎翁」と記述させていただく。

     彼は先々代勘右衛門の子にあたり、先代為三郎の弟でもある。為三郎の早逝により、家を継ぐことになる。
     農村の庄屋らしく、佐太郎翁が当主になるまでの森島家は代々現状維持を続け、衰退もないかわりに進歩発展とも無縁という、江戸時代とさほど変わらぬ 形態を保ち続けていた。

     これを打破すべく、旧弊を廃して立ち上がったのが、この佐太郎翁である。先祖伝来の土地10町歩を担保として主人格の大地主である早川家から資金を調達し、名古屋市の伊勢町で株の仲買店を開く。今で言うリテール中心のミニ証券会社である。屋号は山佐。佐は翁の名前からであろう。創立の年代は不詳だが、明治後半であろうと推測される。

     その決断は成功するかにみえた。おりからの経済成長・軍需景気の時流をつかみ、順調に業績を伸ばしたのである。
     しかし、第一次世界大戦後の不況のあおりを受け、あえなく大正初期に倒産。担保の10町歩は全て負債の整理に消え、家屋敷だけを残して森島家は全ての財産が泡沫と消えた。翁は帰郷し、しばらくは仕事すらなかったようである。
     「かーん、かーんとキセルを火鉢に打ちつけながら、煙草をのんでいる姿だけが思い出される」とは、私の祖父であり翁の長男である弥太郎の述懐である。
     翁は妻つねを早くに亡くし、その妹であるりきを後妻に迎えていた。彼女は森島家始まって以来のこの窮状を打開し、自活の道を探るべく息子弥太郎を連れて東京に上り、羊羹屋を開くことになる。

     さて無聊をかこっていた佐太郎翁であるが、もともと縁が深い早川家のもとで、耕地整理・灌漑事業を始めることになった。「輪中」で知られるこの地は有史以来常に洪水に悩まされ、また区画整理も行われていないため、豊かな地味のわりには生産性が低かった。これを改善すべく、翁はまず、仁木村を流れる揖斐川の支流、大藪川の灌漑を行う。当時で私財数十万円をなげうった、という史実が文献に見えるので、相当の尽力を行ったのであろう。大正12年12月30に開始され、昭和7年9月8日まで10年の歳月を費やした事業は無事成功、水害は減少した。
     その次に着手したのが、耕地整理事業である。不定形で機械が入りにくく、生産性の低い土地を区画整理し、近代的な農地に生まれ変わらせる作業である。この事業は仁木村を近代化することに大きく寄与し、森島佐太郎の名は不朽のものとなった。

     その功により、翁は仁木村の村長に就任。彼の前半生に失った森島家の家産も徐々に復していった。また、翁の功績を讃えるべく、早川家所有の土地(現・森島家)に翁の銅像が建立され、その名誉は後世まで語り継がれることになった。

     昭和17年1月13日、森島佐太郎死去。村長辞任の3ヶ月後であった。生前の功労により、その葬儀は村葬として営まれた。

     翁の功を讃えた漢詩は、掛け軸として今も我が家に残されている。

    蛭藻満張荒廃田 蛭藻(しっそう)張り満つる荒廃の田
    苦心惨憺極精研 苦心惨憺精研を究む
    萬難克服千秋業 萬難克服千秋の業
    得救南安豊熟鮮 救うを得たり南安豊熟鮮(あざ)やかなり

    (蛭と藻ばかりであふれかえった荒れ果てた田畑、)
    (それを立て直すための苦労は、惨憺を極めた。)
    (多くの困難を克服するのにどれほどの時間がかかったことか。)
    (南安八を救い、今や田の実りは見事なものに変わっている。)

    郷土大人佐太郎翁偲偉烈

  • 正史:佐太郎翁以前

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     しっかりと記録としても残り、かつその実像を垣間見ることのできる最も遠い先祖は森島勘右衛門(かんえもん)である。5代当主にあたり、史書にもその名が記されている、森島家中興の祖と言っても過言ではない。親族の古老は親しみをこめて「かんねもんさ」と、名古屋弁でこの人物の名を呼ぶ。
     勘右衛門は明治16(1883)年、66歳で死去している。逆算すると文化14(1817)年前後の生まれである。激動の時代を生きたと言うにふさわしい。
     現在でも本籍地になっている岐阜県安八(あんぱち)郡下大榑(しもおおぐれ)新田一帯は、森島家が農民筆頭格である庄屋2軒のうちの1軒であり、言い伝えによれば10町歩の土地を所有していたそうである。地主としては小規模だが、近辺の大地主である早川家所有の70町歩の代行管理も行っていたようであり、当時としてはまずまずの暮らしぶりだったようである。

     勘右衛門は俳句をたしなんでおり、近辺の富農としばしば句会を催していたことが資料に散見できる。

     眼をあかす いろは始めの 習ひごと 楚風
    (輪之内町史 P.201)

     この楚風というのが勘右衛門の俳号である。

     明治維新の後も、農村にはさしたる変化もなく森島家は地主として存続する。明治5年の戸籍法制定により、勘右衛門は「下大榑新田戸長(輪之内町史 P.212)」に任命され、公的にその地位 を認められる(ただその後の町村合併によりこの制度は廃止される)。

     勘右衛門は、いわば地方文化人とでもいったおもむきの人物であったらしく、前述の俳句のみか、書画骨董も蒐集していたらしい。今、我が家に残る品々は、その多くが勘右衛門の代のものであると推察されている。

     勘右衛門の死後、嫡子為三郎が当主になる。明治32年に仁木村会議員となるが、その年に惜しむらくも逝去。その弟佐太郎が7代目当主となり、森島家の激動はここから始まる。

  • 正史:伝来 森島家はどこから来たか?

    Date: 1998.05.31 | Category: F:Uncategorized | Response: 0

     森島姓に関して、いくつかの文献に目を通したのだが、「森島姓」についての記述はどこにもなかった。それほど多くある姓ではないのであろう。

     かつて聞いた話によれば、森島家の祖は以下の通りである。確証は全くない。

     今を遡ること1300年前、672年に起こった壬申の乱は朝廷勢力を二分して争われ、その中でも天王山として知られるのが不破の関(岐阜県西部、後の関ヶ原)での激突である。ご存じの通 り、この乱の勝者は大海人皇子、後の天武天皇であるが、森島家の先祖は敗者側である大友皇子に味方して戦った。そして不破の関での決戦に敗れた後、後の平家落ち武者のようなかたちで美濃の国に土着したのが、我が家の遠い由来であるという。

     言い伝えによれば、森島家は現当主信夫で9代を数えるという。また、我が家は江戸時代中頃に笠松(岐阜県、岐阜市近郊)からその南部に位 置する安八郡下大榑(しもおおぐれ)新田(岐阜県南部、輪中で有名な地域)に分家したのが始まりということである。
     そのような伝承から推察するに、我が家はおそらく森島家本流の分家筋にあたり、元禄年間の新田開発時に、何らかのコネクションがあって安八郡に移住したのであろう。その後も庄屋として新田を取り仕切っていたという歴史があるので、森島本家は新田開発に何らかの功があり、その分家として、我が家直系のご先祖がこの地に来たというあたりが真相なのではないだろうか。

     「森島姓でも三つくらい系統があり、それぞれ違いがある。今尾(岐阜県南部)から移ってきたのもあり、尾張からきたのもある」という伝来もあり、その由来について、明確な説は存在しないのが実状である。

     「丸に立ち沢瀉(おもだか)」が、我が家の紋所である。この紋の由来についても、確たる言い伝えはない。いつ頃から使用されているのかも不明である。

     <追記>

     森島姓の有名人の出身地であるが、各種文献よりやはり愛知・岐阜両県の比率が高い。事例が少ないため、統計的正確さはないが森島姓のルーツの一端を垣間見ることができよう。

     また、森島家の出身地である岐阜県下大榑新田についてであるが、「牛の様相をした怪物どもが集まっているのを、英雄某が撫で斬りにした。「大ぎり」が転じ、大榑という地名になった」という伝承が、古風土記文中に見うけられる。また、その隣りに位 置する福束(ふくづか)は、室町末期には城が存在していたことが確認され、土地そのものは古い由来を持っている。が、本流の大榑ではなく、我が家の所在地は「大榑新田」であり、一般に新田が冠せられる地域は江戸時代初頭~元禄年間に新たに開墾された地域である場合が多い。我が家のルーツを江戸時代中期に求めるのは、そのような一般的事例に加え、「現在で9代目」という伝承を基にした推察である。

     家紋である「丸に立ち沢瀉」であるが、毛利元就の故事より、戦に際し縁起の良い植物であると考えられていた。そのため、武家の紋所として多用されることが多く江戸時代以降の大小名家の多くがこの紋を使用していた。その中でも有名なのが、三河の国をルーツとする水野氏である。しかし、美濃の国あるいは森島姓とこの紋所の関連は不明である。

    「丸に立ち沢瀉」
    kamon.jpg

  • 我が家のぐりとぐら

    Date: 1998.05.26 | Category: A:Diary | Response: 0

     我が家にハムスターがやってきた。「愛すべき人たち」で紹介している「ピンキー」が、「ハムスターが飼いたい」と駄々っ子ぶりを発揮したため、東灘区のペットショップから、うちに貰われてきました。ま、ピンキーもネズミも同類だし、相通じるものがあったのであろう。

    ぐり  いじめっこ。そのくせ臆病。たぶん飼い主の親戚であろう。
    ぐら  ぐりよりおとなしめ。なぜか鼻の周りがハゲている。今のところ、区別はそこでしかできない。

     以前もハムスターを飼っていたのだが、ピンキーが故郷のど田舎に帰省した際、現地に放牧してしまったという苦い経験がある。今度はぜひ長く居着いて欲しいものです。


     さて、長らく更新のないこのページであったのだが、それには理由がある。昨年の冬以来、ハムスターはピンキーの実家で生活しているのである。帰省時にピンキーが連れて帰ったのだが、異常に家族に愛されてしまい、そのまま某田舎町で呑気な毎日を過ごしているのである。伝え聞くところによると、蝶よ花よと愛玩され、毎日人間様なみの美食にふけっているそうである。

     ところが。

     ハムスターはテリトリー意識の強い動物であるため、基本的には単独飼育をする。なぜぐりとぐらが2匹一緒くたに飼育されているかというと、「ハムスターもね、独りじゃ寂しいんですよぉぉぉぉ!」というペットショップのマスターの演説に聞きいってしまった私とピンキーが、「じゃ2匹で飼うか」と、定見もなく購入したせいである。子供がわさわさ増えるのも困るので、メス2匹を選ってもらった。
     つもりだった。
     先日、ピンキーのもとに、「あんた、なんてことしてくれるのよ!」と、母堂の激しい剣幕の電話があった。思いあたることが多すぎる彼女はうろたえ、「どうしたの?」とおずおず訊ねると、
     「子供が産まれちゃったのよ!」
     と、母堂が言うではないか。

     そう、ぐりとぐらは、どちらかがオスだったのである。
     子供は順調に育っているのだが、さて乳離れした後はどうしようか、誰にも思案がまとまらない。岡山・神戸近辺の方で、ハムスターの欲しい人、募集中です。


     さて、仲睦まじく子供を産んだぐりとぐらであるが、悲しいことに子供の数は4匹であった。ネズミ類を飼ったことがある方ならおわかりだろうが、ゲッシ目というのは、たいてい10数匹の子供を出産するものである。
     ぐりとぐらも、産んだのはそれくらいの数だったらしいのだが、愛するあまりしげしげと覗き込む人の影に怯え、4匹を残して食べてしまったらしいのである。過剰な愛は禁物であるというのも、普遍の法則であるらしかった。

     さて、そういうわけでピンキーの実家ではただいま6匹のハムスターが生息しているのだが、家族の情が移ったぐりとぐらは、このまま永遠に倉敷で暮らすことになりそうである。そこで産まれた子供のうち、1匹を神戸で飼育する、というところに落ち着くようだ。


     前述の次第によって、「我が家のハムスター」はぐり・ぐらの子供を中心に日記を書くことになった。ちなみに、ぐりとぐらの子供は全てもらい手が決まり、ピンキーの母堂は第二次ブリーディングにいそしんでおられるようである。「望まれない子供」でも、大切に育ててあげなければ、などと社会派ぶった発言もしてみたくなる私たちであった。あはは。

     神戸の友人に譲る一匹とともに、我が家で飼育する予定のハムスターも初めて神戸にやってきた。といっても二匹のハムスターが来神したのには時差があり、人に譲るハムスターのほうが、数週間ほど遅れて到着した。その間、1匹はピンキーの手元で飼育された。
     「・・・」
     2匹のハムスターを比べてみると、えらく大きさが違う。これが同じ腹から産まれた兄弟であろうかと思うくらいである。岡山でのハムスターの優雅な暮らしぶりが、目に見えるような違いである。何だか、「育ちの違い」という言葉が思い浮かぶ。ハムスターでもこれなのである。ましてや・・・。

     いやいや、閑話休題。とりあえず、2匹は同じケージの中で生活している。ハムスターはテリトリー意識が強く、兄弟でもケンカをすることがあるのだが、この2匹はいたっておとなしく、鳴き声一つたてない。

     養子に出すほうはさておいて、新しく来たハムスターに名前をつけなければならない。私の命名は「たまを」。この「を」がポイントなのである。しかも、オスでもメスでもかまわない名前である。と力説したのだが、ピンキーはこの名前に納得せず、ただいま親権者同士で、この名前をめぐり係争中である。
     猫や犬と違い、ハムスターは固有の名前に反応するわけでなく、声の違いだけしか区別しない。だから、名前が決まらなくても飼育に問題はない。が、やっぱり名前くらいは早急になんとかせねばなるまい。

    命名:「たまを」(ただし仮名)

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