広がる夏の稲穂を見ながら、終戦記念日に父と交わした、死んだ祖父の話を思い出す。祖父はあの戦争の時代に2度召集された。1度目は日中戦争、2度目は終戦間際の本土決戦。
生きていたころに聞いたのは「戦争だけはあかん」だったけど、今思い返すともっといろいろ聞いておけばよかった。たぶん、話したくなかったんだろう。学生時代の話は楽しそうに語っていたのに比べると。
最初は中国北部の石家荘に駐留していたらしい。戦争初期に占領した交通の要衝なので、最前線ではない。それでも、当時の日本軍が何をしたかについて、聞き及ぶこともあっただろうと推察する。
2度目は名古屋で、決戦に備えた芋畑づくりと東山動物園の管理をしていたらしい。もともと農学部出身だけに。この時にはまだ1歳の父親と、叔父を腹に宿した身重の祖母を残し、ベロベロに泥酔して故郷を出たのだそうだ。親になった今だから、その気持ちは分かる。
「しかしな、出征したら、故郷のことも家族のことも考えなかった」と息子であるオヤジに一度だけ語ったそうだ。死が見えて自暴自棄になったわけでもないのだろう。
確実に戦えば負けるが、戦わなければ愛する人が蹂躙される。その時を引き延ばすだけの死だ。
もはや、何も考えられなかったんじゃないか。
たぶん当時の軍は、上から下までそんな風に考えていたのかな、と想像する。ただ狂気で継戦したわけではないだろう。その頃の新聞には「無条件降伏とは奴隷化だ」という見出しが躍っていたらしいが、中国大陸で日本軍が何をしたか、を知っている人たちは、その報復を恐れたのではないか。実際、ドイツはソ連軍にさんざんと報復されたし。
家族がそんな目に遭うくらいなら、九死に一生をかけて戦わねばならぬ、そんな決意をした人たちは責められない。
そして、かつての英霊を弔うためには、同じくらいかつての自国が、外国でどのような侵略行為をしたかを冷静に受け止める必要があるのだと思う。
祖父が、祖父の世代が何を考えていたのか。もう想像するしかないけれど、僕は「戦争だけはあかん」という、実感のこもった祖父の呟きを思い出す。
70年余の時が過ぎて、日本の風土は今も美しい。